城下町高梁岡山

大正時代町家カフェ 

 

 

Good old days 

どこかで出会ったような 

懐かしい未来   

 

In  Jazz & Blues,

Please make yourself

at Beniwo with organic specialty coffee our own roast and books.

      

  by  cafe' de beniwo

「新島襄、八重と高梁、玉島」 ゆかりの地を描いた絵葉書セット作製(無料)

 

新島襄ゆかりの地を描いた絵葉書セット作製

(お店で無料配布しています)

 

 新島襄ゆかりの地を描いた絵葉書セットを、同志社大学創設者の新島襄の顕彰活動を行っている、玉島同志社新島研究会が作製。

 

 NHK大河ドラマ「八重の桜」の影響もあってか、岡山県でも新島襄、八重夫妻への関心が高まっています。

 

 昨日放映(7/14)の「八重の桜(自慢の娘)」では、八重が最新式七連発銃をもって勇敢に戦うシーンや城方の大砲隊を指揮している姿、容保公からお褒めの言葉を頂戴するシーンなどがありました。次週は「鶴ヶ城開城」といよいよドラマも前半の山場を迎えます。

 また、それとは別に高梁市においても備中松山藩の藩政改革にわずか7年という短期間で成し遂げた山田方谷先生を顕彰する「山田方谷さんを広める会」や「方谷さんの大河ドラマ化」の活動も熱心に行われています。

 それらの色々な活動がひとつにつながり、大きな輪、大きな広がりになることが期待されるところです。

 

 絵葉書は、倉敷市玉島のアマチュア画家水間正雄氏の描かれた水墨画で、「快風丸」(備中松山藩所有の帆船)、「備中松山城」・「高梁基督教会」・「順正女学校発祥の地」(以上高梁市)、「西爽亭・玉島港」(倉敷市玉島)、「同志社大クラーク記念館」(京都市)、新島八重の戦った「鶴ヶ城」(会津若松城、会津若松市)の8枚セットになっています。

 

 

【絵葉書の説明文 】(左上より)

 

 「快風丸の玉島航海」(模型は西爽亭 倉敷市玉島)    

新島襄は江戸で玉島出身の川田甕江に師事していた時に、川田から快風丸乗船を勧められた。同船での江戸から玉島への初航海が、その後の新島襄の行動の起点になった。死罪になる禁を犯しての脱国の際にも、川田甕江と備中松山藩主板倉勝静の後援で江戸から函館まで快風丸に乗せてもらっている。    

 

 「西爽亭」(旧柚木家住宅)(倉敷市玉島)    

新島襄は「快風丸」による江戸からの初航海での玉島滞在中に風呂に入れてもらっている。戊辰戦争では松山藩の家老熊田恰は配下の武士の助命と玉島の町の戦 火を避けるために、この家で切腹している。官軍に寝返りして攻めた岡山藩も「責任の取り方」を称えて米と金子を遺族に贈っている。

 

 「高梁基督教会堂」(高梁市)  

同教会は明治13年2月、新島襄による高梁でのキリスト教の布教活動に感激した人々により同15年4月に創立(教会堂建立は22年)。同16年新島襄は再度高 梁を訪れて信徒と再会している。

 

 「順正女学校発祥の地」(高梁市)     

小学校教師の福西志計子は幼年時代に山田方谷の私塾で学び、新島襄のキリスト教精神による女子教育創生の奨励に感銘を受けて明治14年岡山県最初の女学校を誕生させた。

 

 「備中松山城」(高梁)     

江戸時代後期、5万石の備中松山藩は多額の借金で困窮していたが、山田方谷の藩政改革により小藩ながら精強な雄藩として再生した。改革の一環として洋式軍 艦(平時は商船)の帆船・快風丸を買うことができた。これが新島襄の「玉島航海」から「アメリカへの脱国」に繋がった。

 

 「会津若松鶴ヶ城」(会津若松市)     

戊辰戦争では(旧姓山本)八重は男装して籠城し、炊き出し・負傷した兵士の看護・スペンサー銃で戦うなど籠城戦で大活躍したが、ひと月の後、降参・開城。砲 撃で傷ついた天守閣の赤瓦を満月が照らす夜、三の丸の白壁に「明日の夜は何国の誰か眺むらんなれし御城に残す月影」と刻んで城を出た。

 

 「同志社大学クラーク記念館」(京都市)  

同大学は新島襄が建学した同志社英学校の後身。今出川キャンパス内の赤レンガの建物5館が国の重要文化財に指定されている。

 

 「円通寺より玉島港・水島灘を望む」(倉敷市玉島)     

唯一平家の勝った源平合戦の古戦場。新島襄は初航海での玉島入港の情景を記している。後に滞在した徳富蘆花は「人の子の貝堀りあらす砂原を平らになし て海の 寄せ来る」と読んでおり、戸島神社に歌碑がある。

 

 

【解説文】(同志社玉島新島研究会、高梁基督教会牧師 八木橋康広)

 新島襄は天保14年(1843)安中藩板倉家の江戸藩邸で誕生しました。安中板倉家は備中松山藩板倉家の分家に当たり、その縁で新島は松山藩江戸藩邸の漢学師 範・川田剛(甕江)に師事しました。

 新島は川田の推薦で同藩の洋式帆船「快風丸」に二度乗船し航海しました。文久2-3年(1862-63)の最初の航海では川 田の故郷でもある藩領玉島まで至り柚木邸(西爽邸)に最初の足跡を残しました。

 二度目は元治元年(1864)江戸から函館に至り、同地よりアメリカ合衆国に向け て密出国しました。米国で学問とキリスト教信仰を研鑽して十年後の明治7年(1874)に帰国、翌年京都に同志社英学校を設立する傍ら、キリスト教の布教のため全 国各地を駆けめぐりました。

 新島はかつて自分の大志を実現する上で援助をしてくれた旧備中松山藩関係者には格別の恩義と愛着を感じていたようです。明治13年と1 6年の二度にわたって高梁を訪れて熱烈な布教活動を展開すると同時に旧友との再会を楽しんでいます。

 同地で新島襄の教えを信じた人々が明治15年(1882)高梁 基督教会を設立し、キリスト教信仰を背景にした女子教育や近代医療を立ち上げて精神面での高梁の文明開化の担い手となりました。

 

 山本八重は弘化2年(1845)に会津藩銃砲方の子として若松城下に生まれました。兄覚馬の薫陶を受けて銃砲に習熟して明治元年(1868)戊辰戦争最大の激戦と なった会津若松城籠城戦では最新式七連発銃の狙撃手として、また城方の大砲隊を指揮して大活躍しました。

 明治4年(1871)京都府顧問となった兄覚馬を頼って上洛。覚馬は新島襄と共に同志社の創立者となり、八重は兄を介して新島襄と出会い婚約。同志社開校の約ひと月後の明治9年(1876)に洗礼を受けてクリスチャン・ レディーとなり翌日京都で初めてキリスト教(プロテスタント)式の結婚式を挙げました。明治23年(1890)の新島襄の永眠まで夫の事業を支えました。

 その後、八重は日清、日露の両戦役に際しては篤志看護婦として活躍、その功績により皇族以外の女性としては初めて叙勲の栄誉に与りました。晩年は茶の湯や禅の道に親しみながら長寿を全うし昭和7年に(1932)86歳にて永眠しました。